長崎からの平和への祈り

白くま

2010年08月13日 08:27

闘争だの戦争だのという騒ぎは、おくびょう者がやるのである。
「愛」の人は、すなわち「勇」の人であり、勇の人は武装しない。
武装しない人は戦わない。
つまり「平和」の人である。


本当の平和をもたらすものはややこしい会議や思想ではなく、ごく単純な愛の力による。

この言葉を残されたのは、著書「長崎の鐘」で、ご存じの方も多いと思いますが、永井隆博士の言葉です。

永井隆博士はレントゲン技師で、戦時中にレントゲンの写真フィルムが不足していたために危険なのは承知で患者さんのために目視しで直接レントゲンを見ていたために放射線で、白血病になり「余命3ヵ月」と診断されました。

それでも、研究はやめずいました。

そんな時に長崎に原爆が落とされました。

永井隆博士は病院でレントゲンの写真の整理をしていた時に被爆しました。
病院の窓ガラスは全て粉々に吹き飛び、永井さんも吹き飛ばされ大怪我をされました。

そして、ご自分も怪我をしているのにもかかわらず、病院に運ばれてくる多くの患者の診察にあたりましたが、白血病と被爆症の両方にかかっていましたので、意識を失っては倒れ、意識が回復しては、また診察を繰り返していました。

そして一段落がついた、3日後に自宅に戻ったらご自宅は全壊していて奥様は亡くなられていました。
台所付近の茶わんの近くに焼け溶けたロザリオを見つけました。
そのロザリオには、奥様の遺骨も一緒についた状態でした。

お子さんは、たまたま疎開していましたので助かりました。

そして、永井隆博士は自分の最期が近いのを知りながらも精力的に、長崎の復興に向けてご尽力なされましたと同時に研究者として「原爆症」の研究もされていましたが、倒れられ教会の仲間が建ててくれた2畳一間の家にお子さんを呼び戻し、一緒に暮らしながら「こんな私でも出来ることはあるはず」と執筆活動に入りました。

その小屋が永井隆さんが名付けた『如己堂(にょこどう)』です。

ここで、数々のベストセラーを出しました。

そして最後の最後まで執筆活動を続けられていたそうです。

昨日、立ち寄らせて、いただいた長崎市永井隆記念館でも、ご自分の命をかけてご尽力された永井隆博士の生きざまに感銘を受けました。

実は、昨日のスケジュールは、違うところに行こうとしていましたが、HPS患者の会 代表のヨハンナさんから「永井隆記念館と浦上天主堂には行ってほしい」とアドバイスをいただき、今回のスケジュールを急遽、前夜に決めて時間的な事も考えて帰りの荷造りと送る荷物を夜のうちに送り昨日は朝から巡りました。

そして、次ぎに浦上天主堂へ行きました。

浦上天主堂は、浦上の小高い丘の上に建つ東洋一の教会で、原爆で壊滅状態になっていましたが復興された教会です。

正面に2本の塔が高くそびえ、とても大きな赤レンガづくりの教会で、堂内に入ると天井は高く、ステンドグラスが見事でした。

その一角に被爆の有名なマリア像があります。

そして、教会の方に、今回の旅が慰霊の旅であること、ヨハンナさんのこと、などをお話しましたら、特別に祭壇の一番前で祈る事を許可して下さいました。

ここ浦上天主堂でも神父さまや信徒さんが多く亡くなられています。

この旅の最後に、祈らせていただきました。

教会に来る事が出来なかった、ヨハンナさんにメールして「いまから祈ります」と言い遠くても、思いは届くと思いました。

11時から12時過ぎまで祈り、ちょうど12時には、倒壊した教会の中から無事に壊れずみつかったアンジェラスの鐘の音が鳴り響いていました。

正に平和の鐘です。

鐘は1日に3回鳴らすそうで、私は偶然にもお昼の鐘の鐘をきかせていただくことができました。

この鐘が鳴りますと、教会のみなさんは作業の手を止めて「お告げの祈り」をされるそうです。

教会からホテルへの帰り道、時間が少しありましたので、出島にも立ち寄りました。

よく社会の教科書で扇型の出島の絵を見ましたが、いまは街中にあります。

ここから、日本中に様々な文化が広まったと思うと、何だかとても歴史を感じました。

今回の鹿児島と長崎の旅は慰霊と祈りの旅でした。

また、私の心の図書館に次に伝えていかなくてはいけない大切なお話を収める事ができました。

お世話になりました鳥浜明久さん、尾崎登明修道士、総理さんご家族とご友人と幼稚園の先生、原爆資料館で案内をして下さった方(お名前を聞けばよかった)、永井隆記念館の職員の方、浦上天主堂の職員の方、実はもっともっといろんな方々にお世話になっていますが、この場を借りてお礼申し上げます。

本当に感謝と祈りの素晴らしい5日間でした。

ありがとうございます。