2010年03月29日

細川ガラシャ夫人

昨日、大阪に到着し交流会開始の時間にはまだありましたので、どこかへ行ってみようと観光案内へ行きました。

相変わらず外国人と間違われましたが、私が「神社仏閣でいいところありますか?」と尋ねると返事は、いままで私が行った神社仏閣でしたので「何か他に神社などないですか?」と言うと「もうこの企画自体は終わっていますが、こんなものがあるんですけど…」と出されたのが

大阪まちあるき真田幸村と大阪の陣コース

と言う地図でした。

真田幸村と言えば有名な戦国武将ですよね。
面白そうだったので、地図を拝見すると「越中井 NO.9細川ガラシャ悲話」の文字を発見しました。

細川ガラシャ夫人と言えば鎌倉の円覚寺で日曜説教座禅会に参加させていただ時に管長の足立大進さんが30年も続けてきた法話の会で、お話をする最後の法話だったと言うお話を書かせていただきました(^-^)

日記の中で円覚寺さんが発行している小冊子『円覚』平成22年 春ひがん号 289号の足立管長退管にあたり30年の思いを(細川ガラシャ夫人)の歌で書き表していました。
その詩が


散りぬべき

時 知りてこそ

世の中の

花も 花なれ

人も 人なれ


と言う詩をご紹介させていただきました。

細川ガラシャ夫人って誰だろう?と気にはなっていましたが、たぶん細川さんと言う日本の方と結婚した外国の方かと思っていたくらいで、あれ以来、忘れていました。

その名前が、なんと真田幸村のゆかりの地図に載っているなんて思いもよりませんでした。

とにかく気になって「越中井」へ向かいました。

着いてみると案内板に以下の事が書かれていました。

史蹟『越中井由来』
ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない人が多いのではないでしょうか
ガラシャ夫人は細川越中守忠興公夫人で熱心なキリシタン信者でありました
慶長五年(1600年)忠興公が徳川家康に従って会津上杉を征伐に出陣した留守中反家康の石田三成が大名妻子たちを大阪城に人質にしようとしたがガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取り囲まれぜひもなく家来に首をうたせ家屋敷に火を放ちいさぎよく火中に果てました
この越中井は、その屋敷の台所にあったと古くから伝えられています
昭和九年(1934年)当時地元の越中町内会の人々相寄りガラシャ夫人の徳をしのび顕彰碑を建立したものです
碑の正面表題の文字は徳富蘇峯先生の筆で側面(左側)の由来説明は京都帝大です文学部長新村出先生の文です改めてそれを読みながらガラシャ夫人の壮烈な最後を想い起こして下さい

細川ガラシャ夫人と言う人が、こんな壮烈な最後をむかえて亡くなった方とは想いもよりませんでした。

そして、祈らずにはいられませんでした。

ガラシャ夫人がキリシタン信者だった関係もあるのか、すぐ近くに大阪カテドラル聖マリア大聖堂があり、寄らせていただくと日曜ミサの日で、しかもこの日はまた特別な日だった様で最初は外でお話と賛美歌を聴かせていただき、そのあと大聖堂の中に入りミサを最後まで聴かせていただきました。

その時にガラシャ夫人の事も祈らせていただきました。

こういう見えないご縁で導かれる事もあるんですね。



Posted by 白くま at 09:28│Comments(0)
 
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