
2010年08月11日
祈りの街 長崎(^-^)

コルベ神父さまは、どんな方かと申しますと昭和5年に長崎にこられ、昭和6年に無原罪の園修道院を開設、5年後に修道院内に聖母の騎士学園の前身である「本河内神学校」を開校してました、その後ポーランドに戻って、第二次世界大戦でアウシュビッツ捕虜収容所で死刑を命じられた受刑者の身代わりとなって殉教し聖人になられた神父さまです。
そして、そこの館長をされていらっしゃるのが小崎登明(とうめい)修道士さんです。
この方は昭和3年に今の北朝鮮(本籍地は長崎県外海町黒崎)で生まれましたが精肉店をしていたお父様が病気で亡くなり本人も病気になり長崎へ帰国、帰国後も入院していましたが回復して、お母様とふたりで暮らしていました、そして昭和20年8月9日に長崎・浦上の三菱トンネル兵器工場で原爆に遭いお母様を原爆で亡くされ、2ヵ月後、長崎・聖母の騎士修道院(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)へ入られ、その後は長年、月刊「聖母の騎士」編集に携わる。
聖母の騎士小学校・椿原中学校校長を経て、現在、聖コルベ記念館の館長を勤める。
この小崎登明さんに会ってきてほしいと、頼まれました。
とにかく来る事が出来ないヨハンナさんのためにも小崎登明さんに会わなくてはとの思いで会館時間ちょっと前に間に合う様に行きましたが、ネットで調べた時には地図がなくて「行けば分かるだろう」と住所などのデータだけプリントしていきました。
念の為、番所バス停に着いた時に運転手さんにも聞いてみたら「あの山の上だよ」と教えていただきましたが坂道が急で大変でした。
そして、すぐ番地が離れている事に気がつき、引き返しましたが、道が入り組んでいて変なところへ迷い込んでしまいました。
その時なんだか知りませんが「会館時間に間に合わなくては」と必死でした「神様どうかヨハンナさんの願いを叶えて下さい」と祈りながら歩いていると、すぐ前から地元の人がきました。
その方に聖コルベ記念館をたずねると、やはり間違えていました。
その方が、とても親切で「私もすぐ近くまで行きますので、ご案内します」と言って下さって無事に聖コルベ記念館に着きました。
そこで最初に目に入ってきたのが、両腕を空へ向かって広げ、顔も空を見上げる聖フランシスコさんの銅像でした。
そして館内に入ると黒い修道服?(すいません正式名が分かりません)の修道士さんがいましたので「小崎登明さんいらっしゃいますか?」と尋ねますと「いま中にいますので、お呼びします」とすぐに呼んできて下さいました。
小崎登明さんはなぜか?普段着で私も「あれ?修道士さんですよね?」と思いました。
そして、ヨハンナさんから紹介していただき千葉から来た事を伝えると「ここのところ本当に忙しく昨日は慰霊の日で母の命日なのに、お墓参りもしてないのでいまから行くところなんです」と言っていましたが「せっかく来て下さったから」と私のお話を聞いて下さいました。
ヨハンナさんの事、HPSとアルビノ事をお話してきました。
そうしたら「一緒に写真を撮ろう!」と言っていただき「ちょっと待って着替えてくるから」と部屋に入っていかれ、すぐに黒い修道服を着て出てきて下さり「ここで撮影しましょう」とマリア様に向かって祈る聖コルベ神父の絵が飾られた前で撮影しました。
そして原爆の体験談を聞きました、原爆が落下した時にはトンネル工場でしたので、「ドカ〜ン!」と言う大きな音と揺れで、そうとう大きな爆弾が落ちたと思ったそうです。
そして、そうこうしているうちに怪我人がぞくぞくトンネル内に入ってきて、凄まじい威力の爆弾だと、分かったそうです。
そうしていると海軍の兵隊に「元気な奴は外に出てろ!」と追い出されたそうです。
そして、外に出てみると一面火の海で、いままで見た事がない状態だったそうです。
そして、すぐ母親を探しに行きましたが、爆心地に近かった自宅は完全になくなっていたそうです。
そして母親も亡くなっていました。
「とにかく、ここから離れなくては」と思って歩いていると、女性が担架に乗せられて苦しんでいて、その人を運ぶのを手伝ってほしいと頼まれて運んでいましたが、今度はアメリカ軍の戦闘機が上空から襲ってきて、その女性を置き去りにして逃げざるえない状態だったそうです。
そして、今度は川を渡っていると両足が焼け焦げた少年に足をつかまれ「助けて」と言われましたが、とてもそんな重傷の子供を運んでいられないと「無理だ、あとで必ず助けが来るからそこでじっとしていろ」と言っても「嫌だ!助けて!家に連れていってくれ!」叫んだそうです。
でも、助けられないと、手をふりほどいて、その場から逃げたそうです。
その後、修道院に入りコルベ神父の話を知って「私は人を見捨てたのに、コルベ神父は死刑が決まった人の身代わりを自らなのった…」と知って衝撃と感銘を受けたそうです。
その後、小崎登明さんはアウシュビッツ捕虜収容所で、コルベ神父が身代わりになって下さったおかげで生き残った方とお会いしたそうです。
小崎登明さんは、おっしゃっていました「あの極限状態の中では人間の本能としては『見捨てる事が当然』そうしないと自分が死んでしまう、だけどコルベ神父は、あの極限状態の中であっても、自らの命を見ず知らずの人与えた、そこが違います、私もこうして生かされた以上は、原爆体験を伝える活動をしていきます」とおっしゃっていました。
小崎登明さんは本当にお急がしい様で電話がきて記念館を出ていきました。
その際に両手でかたく握手をして「頑張りなさい!ヨハンナさんにも私からそう言っていたと伝えて下さい」と言っていただきました。
今度は、バスから市電に乗り換えて、長崎原爆資料館に移動しました。
そこで、ボランティアの平和ガイドさんがいました。
実はその方も被爆者の方で、その当時は小学生5年生でした。
そして原爆で生き残ったクラスメイトは、男子がご本人合わせて2名、女子が1名だったそうです。
ご説明も、実体験をされている方なので本当に詳しく、本当に悲惨な現状だった事がよく分かりました。
それから国立長崎原爆死没者追討平和祈念館に行きました。
そこでは、亡くなられた方々の遺影や死没者名簿があり、爆心地に向かっての祈りの空間がありました。
ここでも心静かに祈らせていただきました。
更に奥に進んで、映像で体験談を聞かせていただくコーナーで、たまたま流れていた映像がイギリス人の方で長崎の捕虜収容所で被爆なされた方のお話を聞きましたが、最後に知ったのがアメリカなどの連合国軍は、長崎に仲間が収容されている事を知りながら原爆を落としました。
戦争とは、勝つためにはどんな手段も選べないとは言いますが、仲間を殺してまで勝たなくてはならないなんて、本当に悲しくなりました。
その方は、幸い生き残りましたが「いったい何を信じたらいいんだろう」と思った事でしょう。
そして、思ったより見終わるのが早かったのでホテル近くの大浦天主堂でも祈らせていただきました。
ちょうど、コルベ神父の企画展もあり、運命を感じました。
最後に天主堂横のグラバー邸に立ち寄りましたが、夏休みと言う事もあり家族連れが多く子供たちのはしゃぐ声が元気にしていました。
この子供たちの声が、ずっとずっと笑い声でありますようにと、あらためて「戦争のない世界の実現」に向けて祈らせていただきました。
長崎は数百年もの間、厳しいキリシタンの弾圧に命をかけて抵抗し、祈り続けた「祈りの街」この街に、いま私が来させていただいたのも、きっと何か意味があると思います。
これからも平和を祈り続けます。
Posted by 白くま at 09:58│Comments(0)